ショートショート『土手の上から』2007年08月19日 16:09

僕はいつからここにいるんだろう。
そもそも最初は、僕が「居る」なんてことすら理解できなかった。気がついたら、何も知らない僕という存在がここに放り込まれていた。
最初は、突然やってきた。視界に薄明かりがさして、僕の周りが見えるようになった。その瞬間に僕という存在、僕という自我が生まれた気がする。
突然生まれたわりには僕は、生まれたての赤ん坊よりは物事を知っている。そう、赤ん坊という単語やそれの意味するものも知っている。
だから、あの光がさした瞬間に僕が生まれたってのは何か違うかもしれないけど、僕にとってはそこで生まれたような気分だ。記憶喪失になるとこんな感じかもしれない。
僕は自分が記憶喪失になったのかと疑ってもみたが、どうやら違うようだ。

僕のいるところは、普段は真っ暗だ。明かりが無くて真っ暗というか、周囲の全てが消えてしまったような虚無感がある。
手を伸ばすと、手の先がどこかに消えていってしまいそうだ。だから手は伸ばさない。
立っているだけで、足から順番にどこかへ落ちて失くなってしまう気もするが、重力とか引力もなくなっているのか、地獄の底まで落ちていくことはない。
僕は真っ暗な世界にいるときは、眠っているかのように何もしていない。

そんな世界が時々だけど薄明かりにつつまれる時がある。僕が生き返り、僕の周りの世界も生き返る。
薄明かりに包まれた世界で僕は大きな河の土手に夕日を背にして立っている。毎回毎回夕日が見えるってのも変な気はするけど、慣れちゃった。
それから、河には電車が通る橋がかかっており、電車が橋を通る音がけっこう遠くなのに聞こえてくる。
なんていうか、のどかっていうのか、郷愁を誘うような雰囲気だ。間違っても熱いハートを持ったむさくるしい男が夕日に向かって走ったり、叫んだりはしていない。
それが、どの程度の周期かは分からないけど、時々だけど僕の周りにやってきては10秒ぐらいで終わってしまう。普通に考えたら夕日は一日に一回しか見れないから一日以上の間隔を開けている気はするんだけど、なんとなく5分もたたないうちに、やってくるような時もある。
もっとも、僕は時計を持っていないし、持っていたとしても毎回同じ時間をさしているんだろうから確認のしようがないわけだけど。

それが、何回あったんだろうか、河沿いに続く土手の夕日と反対側に何かキラキラと光るものが浮いているのに気がついた。
あれは、何だろう?
疑問に思った瞬間には、僕はいつもの何もない真っ暗な世界へ還っていた。

それからどのくらい経ったのだろう、また土手の上の10秒だけ続く世界にやってきた。僕は前回の記憶があったので、あの光を探して、土手の先に視線をはしらせた。
やはり、何かは知らないけど、ある。
なんだろう、怖くもあるが興味がそそられる。
ひょっとしたら、僕がこの不可思議な場所から抜け出せる何かが待っているんじゃないだろうか?
歩いて行けるかどうか分からないけど、行ってみるか。うん、行ってみよう。
僕は少ない時間を使ってジワジワと不思議な光に向かって進んでいった。気のせいだろうか、あるときから、この薄明かりに包まれた世界にこれる間隔が短くなった気がする。ありがたい、僕は夕日で伸ばされた自分の影に向かって、一歩ずつ進んでいく。

数えきれないほどの回数、歩いてきた気がする。
しかし、ようやくゴールが見えてきた。あの光は1.5mぐらいの空中に浮かんだ直径5cm前後の丸い何かだ。
光を反射しているようでも、異空間へと続くワームホールのようにも見える。
何だろうか、僕は大勢の人に見られているような視線を感じた。覗き見られているようで、非常に居心地が悪い。
あそこへは近寄るなってことなのか。

僕は一つの可能性に思い至った。僕は仮想現実の中に閉じとめられているモルモットなのではないだろうか。
誰かが、仮想現実をシミュレートする瞬間だけ、僕は活動出来て、その他の時間は外部記憶装置に保存されているのでは?
それならば、視線を感じるのも説明がつく、それまでは取るにたらなかったのに大勢の人間が僕に注目し始めたのだ。
向うの人たちからすると、僕が視線を感じているなんて思ってもみないだろう。いやひょっとしたら、僕のシミュレータ映像を参照している人間の数がパラメータ化してあって、僕がそれを感じ取っているのかもしれない。

あと少し、距離にして50mもないってところで、僕は長らく虚無の世界に閉じ込められてしまった。長らくといっても、時間の感覚が怪しいので正確なとことは分からないけど。

次に背後に夕日を感じたときには、だいぶ時が経過していた気がする。
僕の頭の中を一気に思考が駆けめぐった。
しばらくここへ来れなかった何が悪かったのか?あれに近づいてはならなかったのか?
あの光はある?まだ見える。
ここは、本当に仮想現実世界なのか?
あの光?穴?に近づくのは、やめてしまうべきだろうか?

一瞬、ちゅうちょしたものの、僕は再びそれを目指して歩き出した。それが一つの答えだと僕の中にある何かが告げていた。

あと一回もあれば、そこへ手が届く。
その向うに、大勢の人がいる。息を押し殺しているのを感じる。
もうすぐだ、もうすぐ。

僕はその光を反射する不思議な穴に指をかけた。
穴は5センチにも満たないだろう。だけど、僕は頭から穴の向う側へと、ズルリと抜け出した。
残念ながら、思ったほどの感慨はなかった。

穴の先は明るいかと思いきや、案外薄暗かった。
そして、気温と匂いを感じた。元の場所では感じられなかったものだ。
目が薄暗さに慣れて周りを見渡すと、パイプ椅子に20人ぐらいに人が座っている。いや座っていたんだろう。僕を指さして叫んでいる人、逃げ出す人、冷静に写真を撮っている人、腰を抜かしてパイプ椅子からずり落ちた人。
パニックってこういうことを言うんだな、その原因がおそらく僕なので、ちょっと申し訳なくなりながらも思った。

新しい世界へ来たものの、何がなんだか。まあ、退屈せずにすみそうだな。
「見たよな、あいつが、、、あの幽霊がスクリーンから出てくるのを、なあ見たよな。だからイヤだって言ったんだ」誰かが僕を指さしながら言っていた。



あとがき
1時間半ぐらいで、てきと~に書いたもんです。
最初はPC内の画像や音声・動画ファイルに感染するウイルス型の幽霊を書くつもりだったんですが、映画のフィルムに偶然焼きついた僕が、映写するたびに、スクリーンに近づいてくる話になってしまいました。
我ながらイマイチな話。

ショートショート『コンタクト』2007年03月09日 23:12

気分を変えるために、眼鏡をやめてコンタクトにしてみた。しかも、いきなりカラーコンタクトだ。
どうせやるなら、左右で違う色にしようと思っていたら、それならば値は張るけど、面白い新製品があると店員さんに勧められたのが、見る人の角度によって色が変わる製品だった。
理屈は説明を聞いて分かったような分からんような気分だが、残業続きで金があったこともあり、奮発して青系と赤系の2色を買ってみた。

夕方、4時ぐらいに自宅で午後のうたた寝をしていると、奇妙な夢を見た。
現実感たっぷりで、かつ私が全然登場しない不思議な夢だった。また、ドキュメンタリー映画を見ているようで、視線はまったく自由にならなかった。
夢の中では、家の近くで火事があり、消防車のサイレンが鳴り、警官が交通誘導し、地元の消防団は野次馬を遠ざけていた。
その火事のあった場所が、自宅から駅への通り道だったので、かなり驚いた。
夢から覚めても、鼻の奥に灰やススが付着しているような感じが残っていた。あまりに真に迫っていたんで、夢で見た現場に行ってみたものの、とくに何事もなかった。
安心したような、現実が歪んだような変な違和感を感じながら、その場を後にした。

夢のことなんて、すっかり忘れた数日後に会社からの帰宅途中に、何か鼻を刺激するものを感じた。
何か最近、これと同じ感じを味わったことがあるけど、なんだろうと疑問に思いつつ歩いていると、誰かの家が建っているべき場所に、火事で半壊したものが存在していた。
頭の中でなにかがグルリと回り、記憶と目の前のものがリンクした。
予知夢、正夢、虫の知らせ、そんな呼び名の能力が私にあったのか。けれど、なんでまた他人の家の事件を夢に見たんだろう。

そして、何日かしてまた夢を見た。
今度は、交通事故だ。これまた、夢に私は登場しない。
そして、また忘れた頃に、事故現場に目撃情報を求める看板が立っていた。
私は目撃者と言えば目撃者だが、夢で見たなんて言うと、バカにするなと門前払いをくらうのがおちだし、精神状況を疑われかねないので、結局何も言わずにおいた。
看板はずっと立っていた。

そんな事が何度か続いてようやく分かってきたのは、あの色の違うコンタクトをしている時だけ予知夢を見るってことだ。試しに、わざわざ同じメーカーの普通のカラーコンタクトで実験してみたが、偶然かもしれないが、予知夢は見れなかった。
それと、コンタクトをすれば確実に見れるわけでもないし、どうも私の住んでいる近所で起きることしか、分からないようだ。
だから、競馬や株で大儲けは出来そうにない。

事件らしい事件なんて、近所でそうそう起こるもんじゃないんでだが、ネコ同士のケンカや、学生の万引きなど、予知夢で見たことをノートに記録するようになって、何日かが過ぎた。
さすがに慣れてきたもんで、予知夢を見ている最中に、これは夢だって分かるようになってきた。
その時見た夢の中は深夜だった。街灯の明かりはなく、月明かりが照らす中に、見たことあるが何か変な物が落ちていた。
道が濃い赤に濡れて、月明かりを反射していた。その中心に、人間だったと思われる残骸があった。
イヤだ見たくない、夢から現実に還りたい。私の願いは虚しく聞き捨てられ、視線は死体へと近寄っていく。
頭と胴体は、ほとんどなく、両手は肘から手首、両脚は膝から下が落ちていた。断面は何者かが怪力にものをいわせ引きちぎったかのように荒れていいた。残されたクツとバッグから、女性だったと分かる。
道に広がった血の海に何者かの影が映った。夢だと分かっていても、影の持ち主にこっちを知られるんじゃないかと、息を押し殺した。
気がつくと冷たい汗をかいたまま夢から覚め、闇夜が終わる時間に近かった。

今度の夢ばかりは、さすがに現実に起きてくれるなよと願った。
ライオンとかトラが人間を襲ったような光景を思い出すたびに、寒気がした。

毎日ビクビクしながらニュースを見ては八日が過ぎた。
仕事をしていると、社内で猛獣が人間を襲ったニュースが話題になった。仕事中だが、構うものかとニュースサイトをチェックすると、うちから数キロは離れた場所が現場だった。被害者は女性。
そのまま早退したくなったが、平静を装いつつも、定時までは働いた。ただし、職場で語られる事件の話題には加わらなかった。冗談っぽく、事件についてあれこれ言い合うのには、どうにもついていけなかった。

帰宅して、TVを見ると夜のニュースでも、この話題で持ちきりだった。ただし、彼女を襲ったのが何だったのかは、分かっていなかった。
分かっているのは、何かに襲われて、ほぼ間違い無く食われていたことだった。
近くに動物園なんてないし、最も近そうなズーラシアからも大型にせよ小型にせよ肉食動物が逃げ出したなんて報告はなかった。

最近はコンタクトをしたまま寝るのが楽しみだったのに、さすがにアレを見た後では、どうしようかと悩んだ。しかし、事件解決をいち早く知ることが出来る可能性もあり、結局はつけたまま眠った。

それはまたもや月の輝く夜だった。目の前で若い男が腰を抜かして後ずさろうとしているが、その場で足が地面をこするばかりだった。
黒い巨体の背中が視界に入ってきた。クマかと思ったがシルエットはクマのような丸みをおびてはおらず、余分な脂肪を落としたマッシブな体だ。それは猿人か獣人を想起させた。
その黒い生き物は、男に覆い被さるようになり、黒い肩越しに男の顔が見えた。男の口はぱくぱくと開閉し、音の伝わらない叫び声を上げた。
そこからは、黒い毛皮を着た怪物のやりたい放題だった。最初の一撃で食い破った首から溢れ出る血をノドをならして飲み、肉の多い太もも、上腕を食い、頭蓋を割り中身をすすった。ただし、内臓は口にしたが吐きだしてしまった。
惨劇の細部は、怪物の陰になって見えないのは、幸いだった。
やがて、そいつは食事に満足したのか、立ち上がり二足歩行でその場を去っていった。
あの怪物は何なのだと思っていたら、そいつが突然振り向いた。人間には感じられないような音や匂いを感じたのだろうか。見えない私の方をじっと見ている。
えっ何だ、目が合った。相手の顔は陰になって分からないのだが、それでもこっちを見て笑っているのを感じる。
どのくらい経ったのだろうか、それは視線を外すと、今度こそ去っていった。

翌日、会社には行ったものの、仕事にはならなかった。
どう見てもあの怪物は狼男だった。実際に狼男なのかどうかは、確かめようがないが、何にせよ一般人が立ち向かえるような代物じゃない。
そのうち、警察か自衛隊が何とかしてくれるだろう。
そう考えていたのだが、事態は私の想像以上に悪い方向に向かっていた。
毎晩のように、狼男が私の夢に出て、微笑みかけてきたのだ。前と同じように顔は陰になっているので表情は見えないが、笑っている、笑いかけているのが分かる。次はオマエだからなと宣告しているようだった。
しかも、最初は分からなかったのだが、日をおうごとに私の家へと近づいてきている。
コンタクトを外して寝れば、悪い夢は見ないだろうと分かってはいるのだが、外すとその夜に襲われそうな気がして外せなかった。

そして、夢の中ではなく現実の満月の夜、第二の犠牲者が発見された。
二人目の犠牲者が出たことに世間は、大騒ぎしていた。さらに現場となった市民公園の防犯カメラに映っていた黒っぽい二足歩行の獣が公開されると、騒ぎは一段と大きくなった。
見た目で狼男を連想させるし、2回とも月が出ていたことから、狼男説が多勢を占めていたが、近くにある米軍の座間基地から逃げ出した実験動物という説や、エイリアンのペット、エイリアンそのもの、未知の原人、タイムトラベラーまで、様々な憶測がされていた。
私はといえば、そんな騒ぎには関わらないスタンスをとっていたが、人間以外の化け物であることが分かった以上は、相応の装備を持った対策チームがやってきて、アイツが私の元へと到達する前に、やっつけてくれるのではないかと期待していた。期待せずにいられなかった。

しかし期待は虚しく、警察、消防が大きな獣の潜んでいそうな場所を大々的に捜索したものの、何も見つからなかった。
専門家が現場に残っていた足跡や、体毛からどんな生物か調べてみたものの、未知の生物としか分からなかった。

その間も夢の中でアイツは少しずつ私の方へと近づいてきていた。
捜索は続けられていたが、住宅街にある自宅からはほど遠い場所で捜索されており、ほんとうに私に近づいてきているなら、見つかるわけもなかった。

とうとう、三人目の犠牲者が出る夢を見てしまった。
最初は、私が殺されたのかと思ったが、全然違う人物で、その人には悪いがホッとした。
ヤバい状況には違いないけど、まだ生きられる。
今度は状況がやや変わっていた。怪物がさあ今から犠牲者を食べようとしていた時に、四人目の人物が現れたのだ。
怪物は食事の邪魔をされてイライラしているようだった。そして、邪魔をした当の本人が余裕の表情で立っているのも気に食わないようだ。
四人目は黒いロングコートを着た男性で、日本人っぽくない容貌をしていた。
怪物は威嚇するような、唸り声を上げると、食事の邪魔をした人物に襲いかかった。
てっきり四人目の犠牲者が出たのかと思ったが、どうやったのか攻撃をかわし、距離をおいて怪物を観察していた。
怪物が再び襲いかかったと思うと、怪物の上半身と下半身が別々になっていた。一瞬あとで、男の手に鏡のようにきらめく剣が握られており、その剣で切ったものだと分かった。
身体を切り離されても、動いている怪物の腕、首を男は何のためらいもなく切り落とした。
男は剣に付いた血を拭うと、剣をコートの内側に隠れるように収めた。そして、腰の後ろからズタ袋のようなものを引っ張り出すと、バラバラになった怪物の身体を袋にしまい、それを軽々と肩にかけて去っていった。

何だったんだろう、この夢は。夢を信じると、怪物退治の専門家が、怪物をやっつけてくれたように見えるんだけど、映画やアニメの見過ぎだろうか。
あまりに都合がよすぎる展開を疑わしくも感じるんだが、それを言うとちょっと未来が見えるコンタクトや、狼男も普通じゃありえない話だ。


それから、幾晩かが過ぎたが、未来を覗ける夢どころか、普通の夢すら見なくなってしまった。おそらく、怪物の存在が何らかの影響を与えてあの夢を見させてくれたんだろう。
まっ、理屈はさっぱり分からんがそういうもんなんだろう。

いつも通りに布団で寝ていたはずなのに、気がつくと冷たい地面に横たわっていた。
何だ何だ、また夢か。いや違う、あの夢とは違って、視線を自由に動かせる。それも手も動くし。
手の代わりに黒い棒状のものが動いた。手...毛むくじゃらの手。
なんだこれは、これは私の手じゃない。でも、私の意思通りに動く。
起き上がろうとしたら、下半身に激痛が走った。
見ると、胴から下が切り離されていた。
驚きと痛みで叫び声を上げる間もなく、腕がザクザクと切り離された。
これは、あの夢だ。
そう思い当たった瞬間に私の首は地面に転がっていた。
私が最後に見たものは、銀に輝く剣に映っている左が青、右が赤をした左右で色が違う狼の瞳だった。

ショートショート『感情』2007年02月24日 22:00

何カ月ぶりに、大和の骨董市に出かけてみた。断っておくが、別に私は、骨董の目利きやコレクターなんかじゃなく、ただ珍しいものを興味本位で見るのが好きなだけの凡人である。
市には古い貨幣や、水色というよりは緑色のガラス容器、アンティーク家具、着物、火がつくかどうか分からないライター、TVや雑誌でみたような焼き物、ミニカー、腕時計、などなど色んなものが並んでいて、こういうものが好きな人にとっては、極楽に来たようなもんである。

そんな中に、不思議な店が出ていた。店主は、いかにも骨董店って感じをした頑固そうなシワの刻まれた顔に、角刈り頭をした男性で、年は老人に足を踏み入れかけているように見えた。
不思議なのはこの店主ではなく、売っている商品だ。格子状に小さく仕切られたコレクションボックスのようなガラス蓋のついた木製ケースに、何か米粒のみたいな小さなものが入っている。そしていかにもな顔をした店主の前に、段ボールに黒マジックで「感情」と書いてあった。
おそらく、感情というのが米粒みたいな商品の名前なのだろうが、それがいったい何をするものなのかさっぱり想像できない。
「あの、すいません」
店主は、始めて私の存在に気がついたかのように、ギョロリと目玉をこちらに向けた。きっと、用があるなら話せという合図なんだろう。
「この感情って何ですか」
「感情は感情だよ」
「ですから、その感情っていうのは」
「だから感情は感情だって、他にいったい何があるっていうんだ」
あまりの型にはまった頑固一徹ぶりに笑いそうになりながらも、どうやって話を聞き出そうか考えていた。
「こういうものは、あまり見かけないんですけど、売り物ですよね」
「当たり前だろ、売るために店を出してんだから」
「そうですよね、ところでこちらにはよく出店されているんですか」
「そんなことはどうでもいいだろ、買うの買わないの」
「ちょっと、他の店を見ながら考えてみます」
旗色が悪いと感じた私は、一時撤退することにした。

他の店を見て回っている最中も私の心はあの感情が気になって、目の前の品々には注意が向いていなかった。
離れた場所から、チラチラとあの店の様子をうかがっていたのだが、私以外には、客が一人も近づいていないようだった。

あの店で売っている感情というものが、なんなのか非常に気になる。
次回の骨董市に出店しているとは限らないので、今日買っておかないと後悔するかもしれない。
そう思うと、私は感情を売っている店に戻ってきた。

「こんにちわ」
「また、あんたかい」
「ええ、まあ」
「で、買うの」
「えーっと、買います」
「じゃあ、どれにするね」
「何か違うんですか」
「あんた、そんなことも知らないで買うつもりかい」
「えっ、何かマズイんですか」
「いや、別にいいんだけど」
何だ、何か知らないけど、胸騒ぎがする。
「どれか、お勧めはありますか」
「ほら」
店主は私に、一枚の紙を渡してきた。そこには、感情のリストみたいなものが書いてあった。
妬み、孤独、喪失、寛容、微笑み、怒り、恨み、贖罪、憐憫など。
どうやら、こっから選べってことらしい。全部一揃い買ってみたいんだが、そんなことを言ったら一つも売ってくれなくなりそうなんで、どれか一つに絞るべきなんだろう。
ネガティブなものは出来るだけ避けて、当たり障りのなさそうなものを探した結果、「思いやり」に決めた。
「思いやりを下さい」
頑固そうな店主の表情が、さらにムスッとしたように見えた。選んではいけないものを選んだのかと、ドキッとしてしまう。
「まあ、いいだろう」
「おいくらですか」
「三千円」
店主はケースを開けて、茶色い米粒みたいなものを、小さな紙袋に入れながら言った。三千円というのが高いのか安いのか、判断できないが私は財布から千円札を三枚だして、思いやりと交換に支払った。

家に帰りつくと、どうしたもんかと悩んでしまった。
骨董市では、どうしても気になったんで、意味も分からないまま買ってしまったが、あの店主の言う通り私はこれについて何も知らないので、どうすればいいのかさっぱり見当もつかない。
こういう時は、インターネットで調べ物をするに限る。「感情」をキーにサーチすると、山のように検索結果が出てきたんで、さらに「骨董市」を追加してみる。
かなり数は絞り込めたものの、私の探しているような結果は得られなかった。

この形状から、何かのタネであると想像はできる。ってことは、植えて育てるか、食べるかだな。
しかし、さすがに食べるのはちょっと気が引ける。
そこで植えてみることにした。

まずは、小皿に湿らせた脱脂綿を置いて、その上にタネを乗せて様子を見ることにした。
一日目、二日目は変化らしい変化はなかったが、三日目になると、外殻みたいなものが割れて、中から芽が出てこようとしていた。
そこで、空いている植木鉢に園芸用の土を入れて、人差し指で土に穴を開けて、芽が上になるようにして、穴に埋めてやった。
水の量は分からないので、全くの適当。乾かないように適度に水をやった。
六日目になると、かぶせた土を押しのけるようにして、小さな双葉が顔を出した。
嬉しいと同時に、ホッと一安心した。まずは、第一関門突破である。
十日目になると、白く頼りなげだった茎は、緑色を帯びてきて少し太くなり、たくましさを増したかのように感じる。心の中で、頑張って育ってくれよと語りかけた。
私の気持ちに応えるかのように植木鉢の中で、少しずつ少しずつ、それは大きくなったいった。

一カ月半ぐらいたっただろうか、高さが三十センチほどに育ったあたりで、それ以上大きくなるのをやめて、今度はつぼみをつけ始めた。
どんな色の花が咲いてどんな匂いがするんだろう。
期待に胸を膨らませつつ、さらに一週間ほどたったある日、仕事から帰りつくと、可憐な白い花を咲かせていた。
花の重みで、茎の上の方が下向きになっており、恥ずかしがっているように見える。花弁は5枚で、全体的な形状はラッパ状をしている。白い花弁の中心部は淡いピンク色をしている。
私は服をスーツを脱ぐのも忘れて、花に見入っていた。
どのくらい、見つめていたのか分からないが、この花が咲いたことを祝いたくなってきた。
部屋から離れたくないと思いながらも、遅くまで営業しているスーパーまで行って、ビールとミネラルウォーターを買ってきた。
ビールは私、ミネラルウォーターは花のためだ。
自分でも祝い事にビールというのが、貧困な発想だと思うが、一人と一輪で祝杯をあげた。
気がつくと、畳の上で朝を迎えていた。どんな夢だったか思い出せないが、幸せな夢を見ていた気がする。白い花まで夢だったんでは?と思って、植木鉢を見ると、昨晩見たときのまま可憐な表情で笑いかけてきているようだった。
微かな美香が、部屋に漂っていた。

それから、三日後、世間の様子が何か違うと気がついた。
なんだろうか、空気が柔らかくなったように感じる。
その日の夜のニュースでキャスターが今日は各地で事故や事件が少なかったと言っていた。私が感じた何かの証だろうかと考えつつ、眠りについた。

不思議と事故や事件が発生しない日々が続いている。
全くゼロ件というわけではないが、起きているのは不注意や機械の故障であり、なんというか悪意に基づいた犯罪は発生していない。
しかも、世界のどこの国でも発生していないのだ。
さらにある富豪は、自分の財産を寄付したり、どっかの国では破壊兵器を放棄したらしい。
身近でも、電車では老人に席を譲り、車は歩行者の近くでは徐行し、タバコのポイ捨ては無くなった。
誰も、人々の意識が変わった理由については、説明できなかったが、ほとんどの人は説明なんて求めていなかった。みんな説明を聞いたら、この魔法が切れるのではと、心のどこかで恐れていたんだと思う。

平和な日々が始まって14日後、花が枯れた。
何日ぐらい花を咲かせるのか知らないけど、きっと寿命なんだろう。無意識のうちに、ずっとあの花はあるもんだと思っていた。
悲しいけど、私の目と心に栄養を与えてくれた正式な名前も知らない花に感謝した。

翌朝、再び空気が変わったのを感じた。化学物質で肌がチクチク・チリチリするような感じだ。
イヤな予感がした。残念ながら、それは的中した。電車に乗ろうと並んでいると列に割り込もうとする人、電車の中では、クチャクチャとガムを噛む人、足を踏んでも誤らない人が返ってきていた。
最近、見かけなかったんで、その素行の悪さが余計に目立つ。
ここでようやく私はあの花と空気の変化の関連に思い至った。あれは、ああのタネの名前は確か「思いやり」だった。そうか、あの花が、そうなんだ!
私は、こんな話は誰に言っても信じないだろうと思いながら、電車に揺られながら、一人クスクスと笑い出した。