自殺予告のTVを見て感じたこと2006年11月14日 21:56

日曜日に外出先で久々にTVなんぞを見ました。
番組の中で、自殺予告があったってんで、豊島区あたりで、夜を徹して警察やPTAの方々が見回りをしている様子が映し出されていました。

それを見て、『何か違う』と感じました。
私は、画面越し、しかも編集された映像しか見ていないんで、その場の空気は理解できませんが、違和感を感じました。

なんだか、自殺を止めることが目的になってないか?
仮に自殺を止めたとしたら、あぁ良かったで終わりそうな気がしてイヤだ。
大事なのは、自殺しようとした心を救うことであって、自殺そのものじゃない。それを分かって行動しているならいいんだけど。

自殺を止めるのなら、その後の責任をきちんと取れる場合にだけにして、一時の感情で無責任に自殺だけを止めて満足するのは絶対にやめてほしいもんである。
そうでないと、自殺願望者にとっては、心は救われないわ、死にたくはないんだが死ぬ自由すら奪われるわ、他人は信用できなくなるわで、緩慢に生き地獄を歩いていけと宣告されるようなもんである。

自殺を止めたい気持ちは分かるが、それだけじゃ不十分だということも分かっていて欲しい。


ついでに言うと、危険なのは、自分から自殺予告を出したり、いのちの電話に電話をかけたりする事のできない人間だと思っている。
自殺予告や電話するのは、少なくとも外部に向けて連絡する手段と本人の意思があるのだが、それが出来ない人間が世の中には存在している。

そういう人間の生の声を聴くことは絶対に出来ない。
だって、何らかの方法で自分の気持ちを伝えることが出来た瞬間に、心の中でなにかが変わっているのだから。

そういう救いの手から取り残される人間がいるって事も分かってほしい。

泥酔路線バスについての悩み2006年09月13日 08:18

泥酔路線バスの歌詞を公開したのをちょっと悔やんでいる。
かと言って表のドン通でも公開しちゃったので、いまさら取り消せないしな。

何が悩みの元かと言うと、飲酒運転の車に巻き込まれてケガをしたり、家族を亡くした方がいるってことをすっかり忘れていたからだ。
そんな人が聞いたらどう思うだろうか?面と向かってN村を非難する人は少ないと思うが、決していい気分はしないだろう。

そして、事故を起こしてしまって、後悔している人もいる。
N村と泥酔路線バスが直接それらの方々に関係あるわけじゃないが、それでも神経を逆なでされると感じる人はいる。

影響範囲がドン仲メンバー内に限っているなら、身内を笑いものにするぐらいなんで大した問題ではないんだけど、公開したからにはそうはいかなくなる。

恐らく泥酔路線バスは完成するだろう。
正直なところ、完成したものを聞いてもらいたいという気持ちが強すぎる。
自分の欲望と少数の他人の気持ちを秤にかけて、自分の欲望を選択するわけだ。

今から、この曲を封印してしまう事は出来る。
しかし、封印しようがN村が曲を作る上で大事な役目を果たした事実は消えることは無い。
罪は忘れ去られることはあっても、無くなることはないのだから。
罪が無くならないからといって完成へ進む行為が正当化されるわけではない。

そこまで考える必要はないという意見も自分の中には少数ながらある。
TVなんて、多かれ少なかれ、誰かを傷つけているわけだし(全てのTV番組がそうではないけど)。
ただ、TVで似たようなことをやっているからといって、泥酔路線バスの曲
が許されるかというと、そうではない。他の人がやっているから自分もやる(許される)って判断方法は間違っている。

自分でもショックだったのが、マジョリティーよりもマイノリティーを愛して生きようと思っていたのに、それが実践出来ていないって事だ。
全くイヤになってくる。こういう時に自分を殺したくなる。

幸いなのは、誰かに指摘される前に自分で、快く思わない人に気がついたことだ。

自由人2006年09月05日 23:10

N村は知人から「自由人」だと言われた経験がある。
自分でもそうありたいと思っていたので、その時は嬉しかった。ではN村の考える自由人とはどんなものなのか?


自由人とは案外不自由なものである。
自由人にはルールがないのではなく、自分でルールを作らなくてはいけない。
そして、自分で決めたルールには従わなくてはならないし、そのルールを勝手に変更するのは許されていないからだ。
当然ながら社会的な制約も受ける。下手すると社会のルールと自分のルールで縛りが多いぐらいだ。

それでは自由人の何が良いのかと言うと固定観念に束縛されない発想と行動の自由である。

面白いと思えば、いくらそれが突拍子もなくて社会的な対面が損なわれる行為でも実行できるのが、自由人の良いところだ。
つまり、価値基準の中心は自分自身がどう思うかであって、他人からどう見られるかではない。他人の視線を捨てされる羨しさが、自由人と見られる一つの要素だと思う。

そして、普通の人が思いつかないことを、どれだけ思いつくのかが大事。それを、日々積み重ねられないと、ごく稀に変わった行動をした人間という評価になってしまう。
そもそも、自由人という評価が欲しくてやるもんじゃないけどね。

ただし、他人の目を気にしないだけの人間は、ただ自分の思うがままに行動する周りの見えない人間でしかない。
その為に最初に述べた自己ルールが必要となってくる。

ついでに大事なのはユーモア。人を不快にさせるのではなく、人に笑ってもらえるのも大事である。
人に笑ってもらうには、他人の目を意識しなきゃいけないわけで、先の説明と矛盾していると思うかもしれない。
ちょっと戻って、先に述べたの他人の目というのは、自分の中にある羞恥心を捨てると置き換えてくれればよい。

これがN村の中にある自由人のイメージである。

アンチ・ストレス「まぁいっか」思考法2006年08月16日 00:14

ストレスの無い生活を送るためにはどうしたらいいか?

N村が出した一つの方法が「まぁいっか」で大抵のものを許容することである。
ストレスの一つが、『認めたくないイヤな事象の発生』です。起きてしまったことに関して、「なんでやねん!」とか「勘弁してよ~」とか「ざけんな、ボケッ」と言ったところで、何の解決にもなりません。それどころか、それを聞いたというか聞かされた人間のストレスが更に上昇します。
なので、起きてしまったものはしょうがないので、まずは「まぁいっか」と現実を受け入れるわけです。だって、変えようの無い事実に文句言っても、それが変わるわけなんて絶対ないし、文句を言うのは時間の無駄でしかありません。合理的に考えれば、ぐだぐだブツブツ言うのは、マイナスでしかないのです。
ここで大事なのは現実逃避とか責任逃れはしないこと、それは単なる甘えでしかありません。「まぁいっか」は事実を受け入れる為の緩衝材であり、逃げる為の言い訳・開き直りではありません。

「まぁいっか」でそのまま放置しておけば良い場合もありますが、そうでない場合は、気分リフレッシュして『イヤな事象』の解決にあたらねばなりません。
例えば、電車が事故で遅れてます、なんてのは鉄道職員でもない限りは、「まぁいっか」と諦めて読みかけの本でも読んでればOK。
そうではなくて、さぁ仕事も終わったし帰るかなと思ってたら、N村の作ったプログラムがバグって客先から連絡があった、なんて場合は「まぁいっか、N村が居たんで、即時対応できるし」と気持ちをサクッと切り替えて、問題解決にあたります。

それが出来るだけで、日々のストレスはかなり解消されます。

そんなことが出来るんなら、誰も苦労せんわい!って言われそうな気がしますが、うーん、何とも答えようがないですね。N村はそこを「まぁいっか」で何とかしてるわけなんで、各自勝手に気持ちを切り替える方法を考えて下さい。
まずは、自分がストレスと感じているかどうかを確かめて、ストレスを認識してやるのが良いかと思います。

守るべきものがある人間・失うものが無い人間2006年08月10日 23:48

女は弱いが、母は強い。
最近はあんまり聞かないが、説得力のある言葉である。
守るべきものや、愛するものがある人は時には自分の命をかけられるほど強いという。命をかけるのが強いのかどうか疑問ではあるが、それでも普通じゃできない事でも出来そうである。
実際に、災害で自分の身を挺して我が子を守ったなんて話もある。
それは実は、遺伝子の仕業だ!!な~んて、話はする気は毛頭無い。

私が知りたいのは、守るべきものがある人間と、失うものがない人間はどっちが強いかだ。
同一の人間が、同一の環境で、それぞれの立場でどういう行動をとるのかサンプリング出来れば、それなりの回答は得られそうだが、それはパラレルワールドを利用した統計手法でも開発されない限りは無理そうなので、脳内でのみ考えてみることになる。

守るべきものが力を発揮するのは、当然ながら対象物が危険にされされているか、それを想定される場合である。極端な言い方をすると、守るべきものが見えない・想像できないと、力を発揮できない。
それに対して、失うものが無い場合は、いつでも100%の力を発揮できそうな気がする。ただし、やる気になるかどうか、かな~り怪しいんだけどね。

仮に、失うものが無い人間が100の力を発揮できるとした場合、守るべきものがある人間が愛するもののために、発揮できる力は100であろうか、100以上であろうか?瞬間最大出力が高い分、100は超えてくれそうな気がする。

ついでに、守るべきものがある人間が守る対象を失ってしまった場合、失うものが無い人間になれるかというと、そうはならないであろう。自棄になって暴走するような輩は、その能力を発揮できるとは思いがたいので、さっさと退場していただこう。

そんでは、具体的な例を上げて考えてみよう。
拳銃強盗に家族を人質にとられています。って、これって犯人が主体的に動くんで意味ないじゃん。
うーん、このネタはもうちっと煮詰めんといかんな。まあ、思い出した頃にまた考えよう。